最近、詩集が届きました。
丸田麻保子さんの『あかるい時間に』。
言葉が深く、届いていきます。
喪失と僥倖。躊躇と逡巡。そういったことをめぐる、言葉にならないような時間と空間に。
たとえば、
「そのあとわたしたちは、
たがいの腕を洗い、時計を交換した。」(「時計」より)
「こごえるような藍色 ノ空ノ下
行列は、
くるわせないように
ていねいにたわめられる」(「その場所で」より)
『傷を愛せるか』『トラウマ』など、私の本を愛読してくださっているらしく(面映いですが・・・)、添えられていたお手紙には、
「傷は愛されたいのかしら、時々ふと思います。」
と書かれていました。
「傷は愛されたいのか?」
私自身は考えたことのなかった問いです。
ふむ、どうなんでしょう。
傷を擬人化していいのか?
擬人化しなくても、成り立つ問いなのか?
宿題をいただいたような気分です。悪くない。
「あかるい石たち」というパウル・ツェランの詩を、『トラウマの医療人類学』で引用したことがあります。
「あかるさ」とともに、「石」とはなにかも、今、私の中で問い直している問いです。
秋の夜長に、ゆっくりと考えてみようと思います。
ついでですが、「そだちの科学」の最新号に、
「トラウマへのまなざし、トラウマを耕すことへの感性」を、松村美穂さんと共著で書いています。
この号、とても充実しています。お買い得!!!
ぜひ、いろんな執筆者のトラウマ論を読み比べてみてください。