「東京から逃げるのはずるい」といった発言と、それへの反発があちこちから聞こえてくる。
「逃げる」のは「ずるい」ことなのだろうか。少し、考えてみる。
そうすると、逆に「なぜ逃げなかったの?」という言葉が思い浮かぶ。性暴力やDVの被害者に繰り返し向けられてきた言葉。「ほんとうに嫌なら、なぜ逃げなかったの?逃げなかったってことは、そんなに嫌じゃなかったってことじゃないの?」という、被害者に責任を負わせる論理だ。
「逃げるのはずるい」というのと、「なぜ逃げなかったの?」というのは、方向としては全く正反対である。でも、私には、この二つの言葉は根っこではつながっているように思える。
その二つの言葉に抜け落ちているのは、他者を他者として尊重するということだと思う。
私たちが今、心に留めておいた方がよいことは、「人によって怖いものは違う」という単純な事実だ。
なるべく正しい客観的な情報をシェアするということがまず大事ではあるけれど、そうした後でさえ、人によって怖いものは違う。
余震が怖い人も入れば、放射線が怖い人もいる。一人でいることが怖い人もいれば、誰かと一緒にいることが怖い人もいる。怒鳴り声が怖い人もいれば、静けさに耐えられない人もいる。あらゆることが不確実であることに恐怖を募らせる人もいれば、情報が多すぎることに圧倒される人もいる。
怖いものは、その人にとっては怖いのだ。そして怖いものからは、離れていいのだ。
同時に、逃げられない理由や、離れたくない理由も、人それぞれに違う。
誰とのつながりが大切か。何に愛着を持ってきたか。何がその人の生を支えているのか。先行きにどのような見通しをもっているか。そういったことでも変わってくるし、単純に、旅慣れているとか、これまでも引っ越しが多かった、といったことにも左右されるだろう。その人のこれまでの人生経験や哲学が、そこには映し出される。
「横並び」の「ぬけがけ禁止」みたいなのは、かなしい。
「逃げるのはずるい」という代わりに、「ほんとは自分だって逃げたいんだよ」と言ってしまってはどうだろうか。
「なぜ逃げないの?」という代わりに、「それくらいあなたのことが大切なんだよ」と言ってみてはどうだろうか。
流れる空気が、柔らかくなっていかないだろうか。